創立15周年記念行事

飛躍への原動力

【1963年(昭和38年)はHondaにとって一大飛躍への大きな節目の年でありました】

■初の4輪車、T360とS500を発売。

■スーパーカブのかつてない増産。

(1958年8月,にスーパーカブC100を大和工場(旧埼玉製作所和光工場)で生産し発売開始。 1959年には米国へ輸出を開始し1960年に鈴鹿製作所で増産を開始、1961年にはスーパーカブシリーズ世界生産累計100万台を達成。台湾でノックダウン生産開始など(初の海外生産))

■輸出の増大。

(日本の総輸出額(年間予想54億ドル)の1.03%にあたる二百億円以上を見込んでいる。)

 

当時、藤澤武夫専務は1963年8月号のホンダ社報の中で次のように語っています。

・・・創立以来十五年というごく短い間に、零から出発し、我々が念願としていた"輸出企業"としても目ざましい成果をおさめつつある。かつて夢物語と思われていたそれを、今ここに実現し得たことは、何とも痛快なことではないか。

 また、我々自身の手で、ここまで輸出を生み出し、そして日本人の頭脳の優秀性を海外に発揮してきたことは、大いに誇って良いとことと思う。

 しかし、こういうことは、一朝一夕にはできるものではない。数々の試練を克服しながら、我々自らの力で、築きあげてきたのである。

 十年前、四億円にものぼる機械を輸入したことがあったが、そのドルを、我々自身の手で稼ぐまではと、創立記念行事を延期したこともあった。

今ここで、未来に大きく眼を向けるとき、我々は決して現状に満足してはならない、と思う。

 私は、この創立十五周年を契機として、更に新たな確信を引き出したい。

この文章には、創立15周年記念式典を機に日本最高の輸出企業を目指し飛躍への原動力としたいという、藤澤専務の熱い気持ちが伝わってきます。

 

 

さかのぼること2ヶ月前のこと

 

1963年6月5日発行のホンダ社報臨時号で

『創立15周年の記念行事ならびに記念事業実施案募集』が出されました。

 

以下に紹介します

 


上記内容は

ねらい

『意義ある創立十五周年を祝して、従業員のアイデアによる画期的な記念行事ならびに記念事業を実施することにより、躍進する本田技研全従業員の英気を養い、志気を高め、さらに新たなる節づくりへと、逞しく前進させることを、ねらいとする。

 

⑵内 容

記念行事・・・若さとアイデアを象徴し、全員が楽しめ、かつ健全なもの。

記念事業・・・創立記念を期して、実施する。従業員を対象としたもののほかに社会的に有意義な事業も含む。

この事業は実施期間中に行うものとは限らない。

〈例〉従業員の海外特派、記念館、図書館の設立など。

 

(3)実施予算

一切制限しない。

 

(4)実施期日

記念行事は、九月二二日、二三日、二四日の三日間のうちに行う。採用された記念事業実施案については、創立記念日にその内容を発表する。

 

(5)募集対象者

本田技研工業株式会社

および株式会社本田技術研究所従業員。

 

(6)提案方法

提案の方法は、課全員を対象としたグループとしての提案と、個人を対象とした提案の二つの方法をとる。

①グループ提案

イ、課を中心とし、全員の英知を結集して、記念行事と記念事業の双方を合わせた計画を立てる。

計画はその実施について具体的で詳細にわたった内容であり、かつ予算案も添付すること。

ロ、右の計画は一グループ一案とする。

ハ、二〇人未満の課は、原則として他課と連合して、二〇人以上のグループをつくって提案すること。

②個人提案

イ、個人の提案は、記念行事、記念事業のいづれか一案のみの提出で良い。

ロ、個人の提案は、上記のグループ提案への参加を原則とするが、グループの代表案とならなかった場合は、課長を通じて個人としての資格で提案することができる。

ハ、個人の提案についても、その内容、経費について、なるべく具体的なものであること。

③提案用紙

提案はB5(社報と同サイズ)の用紙に具体的な実施内容を記載して、これに所定の表紙(各事業所庶務担当課に備え付けてある)を添付すること。

 

⑺提出先

すべて、所属課長を通じて、所属事業所の庶務担当課長へ提出すること。

 

(8)締 切

六月二〇日(木)

 

(9)審 査

⑴応募された提案は下記メンバーで構成する審査委員会で審査し決定する。

審査委員長 藤沢専務

審査委員 

本社・向陽会理事長      計一名

埼製・明和会理事長 理事二名 計三名

浜製・浜友会理事長 理事二名 計三名

鈴製・爽風会理事長 理事二名 計三名

工機・工友会         計一名

技研・研友会理事長 理事一名 計二名

(審査委員になる理事は、理事会において選出する。)

⑵今回の行事ならびに事業の提案に関する審査の方法、採否の決定、二グループ以上から同じ案が採用された場合の賞金の配分等は、一切審査委員会で調整、決定する。

 

(10)発 表

七月初旬

 

(11)賞 金

①グループ提案のうちから

・最優秀賞 一グループ

イ、五〇人までの課は、一グループ五〇万円を贈る。

ロ、五〇人以上の課は、一人増すごとに五、〇〇〇円追加する。

・一等 一グループ 二五万円

・二等 二グループ各一五万円

・三等 三グループ各 八万円

・佳作 一〇グループ各五万円

いずれも人数に制限なし。

・協力賞 グループに制限なし。(最優秀賞以外より採用された場合は一件につき 五万円)

今回の記念行事ならびに記念事業は、最優秀賞に該当した提案内容を中心とし、さらに他のグループ(一等〜佳作と入賞以外のものを含む)より出された提案の秀れた部分は、これを組み合わせて、実施する。

この組み合せに採用された提案に対しては、すべて一件につき協力賞として、五万円を贈る。

②個人提案のうちから

・採用一件につき二万円と特別休暇二日を与える。

・アイデア賞  記念品。

 

 

 

 

けた外れの提案

募集期間はわずか2週間。その上、賞金は最優秀賞1グループ50人までの課は50万円、それ以上の課は1人増すごとに5000円追加という、大学卒の初任給が約2万8000円の時代としては、とても大胆なものでありました。 

約2週間という短期間での募集にもかかわらず、応募件数は452件にのぼりました。

 

藤澤専務を委員長として、各事業所のレクリェーション機関から選出された審査委員の計14人による審査を6月26日に実施。

 

浜松製作所第1機械課グループが提案した『模擬国際都市の夜』が最優秀賞に選ばれました。

『模擬国際都市』という着想がバラエティーに富んでいること、計画が具体的で、かつ緻密であることが大いに評価された。

予算総額が約1億円という、けた外れの提案が通ったのであります。

出典:Honda

 

 

 

審査委員長の藤澤は、

「みんなの出してくれたアイデアを見て感じたんだが、全くこんこんと湧き出ずる知恵の泉のようだね。特に、浜松製作所の第1機械課のものはずば抜けて素晴らしい。ここまで深く、突っ込んで、具体的に、かつ詳細にプランを立てた、その知恵、努力は大いに買いたいね。賞金165万円、見事に取られちゃったけど、私は決して惜しいとは思わない。それくらいの価値は十分にある。賞金は、思う通り自由に使ってくれ」

と、絶賛した。

受賞の知らせを受けた浜松製作所第1機械課の人たちは、

「あの瞬間、みんな身震いした。嬉しくて…。震えがきてジンマシンが出たやつもいた」

ある程度の自信はあったが、まさか最優秀賞をもらえるとは思っていなかったのである。提案メンバーの1人は、

「賞金をいただくのもうれしいけれど、みんなで一つの提案をまとめるまでの過程が、いろいろな意味で大変勉強になった」

と、語っている。

第1機械課グループが獲得した賞金の一部は、全員の総意により、工場近くの姫街道の交差点に設置する信号燈の費用として寄付することとなった。この交差点では時々、交通事故が起き、それが世間でHondaの人間だといわれるので、その汚名返上という意味もあって行われたものである。

 出典:Honda

社長の本田宗一郎は、

「おれも専務も遊ぶ方は大体嫌いな方じゃない。専務もそうだが、遊ぶときには、けちけち遊ぶのは好きじゃない。15周年記念も、おれが働いたんで、これだけ遊べるという味わい方をしてもらいたいな。京都を借り切ってやるというのは豪壮じゃないか。それはやっぱり仕事の面にも出てくると思う。まあ正々堂々と大いに遊んでもらいたいな。これからも大いにもうけなきゃならんから」

と、1963年8月発行のホンダ社報の中で述べている。

出典:Honda

1963年8月発行のホンダ社報

社報の原文です

最優秀賞を獲得した浜製第一機械課グループ

社報掲載写真

グループ写真の四つ葉は『四輪進出』『最優秀賞の受賞・・・ラッキー』の意味だそうです

 

実行委員の粘り強い努力

この原案を基に、従業員の代表で構成された実行委員会が企画に入った。社長の本田からの要望は、たった一つ、

「決して地域社会に迷惑を掛けるな」

であった。企画は細心の注意を払い進められた。

その概要は東京地区は列車、浜松・鈴鹿地区はバスで京都入り。服装は全員がクリーム色のシャツ、黒のネクタイに統一する。前夜祭は3つの会場に分け、それぞれに国際ムードを醸し出すためのアイデアが組み込まれた。各会場はすべて食べ放題、飲み放題、会場間は貸し切りの巡回バスで自由に行き来できる。2日目は、京都市体育館に全員が集合し、記念式典を行う。『遊ぶだけ遊んだら心を引き締めて』という企画である。

ここでまず困ったのが、旅館と会場の確保である。当時、京都市内の宿泊能力は3万人に満たない状況であるのに、そこへ、約8000人の申し込みをすることとなった。1000人以上の宿泊の場合は1年半ぐらい前に、8000人であれば3、4年前に申し込むのが業界の常識であった。それを3カ月前に言って、宿を確保しようというのだから尋常ではない。会場のやりくりにも苦戦が予想された。そこで数名の実行委員が京都に泊まり込み、あらゆる手を尽くした。ほんのわずかな可能性を見つけては京都府観光協会に足を運び、何度も交渉を重ねるうちに、

――若い人たちがこんなにも本気で打ち込んでやっているのだから――

と、旅館組合で何とか宿を確保してくれることとなった。確保した旅館数は222軒にものぼり、1社でこれだけの数を手配したのは京都で初めてのことであった。

次に、苦慮したのが交通手段である。全従業員が一度に京都入りしては交通の混乱を招く恐れがあるので、9グループに細分化。時間を、30分から1時間ずつずらして京都入りするという配慮もした。

当時、名神高速道路の一部が開通したばかりで、浜松の遠州鉄道のバスには移動時間を見込むための試走もお願いした。また、前夜祭が行われる京都国際ホテルでは、ダンスパーティーを企画したが、Hondaの従業員は男性が約7200人、女性が約500人。女性パートナーが圧倒的に不足している。そこで実行委員は京都市内のデパートや女子大を訪問して交渉を重ね、200人の女性パートナーを確保した。

観光地にはつきものの、暴力沙汰なども懸念された。その上、平均年齢が24歳と若く、参加人数も多いため、何か問題が起こってはいけないと、関係者、および警察や消防署にも協力を依頼した。このように実行委員の数々の苦労と努力により、記念行事は実施の日を迎えた。

出典:Honda

夢と若さの集い『模擬国際都市の夜』

9月22日の前夜祭の会場となった弥栄会館、京都会館では一流スター、外国人バンド、ダンサーを招き、ミュージカル、バラエティーショー、歌謡ショーが行われた。招いた芸能人関係者は420人にものぼった。

 

岡崎広場には万国旗が飾られ、日本をはじめ、アメリカ、フランス、イタリア、中国など各国の風景を描いたドーム型の模疑店が出された。模疑店には各国の料理とビールが並び、国際色豊かなガーデンパーティーが行われた。京都国際ホテルではダンスパーティーとショーが行われ各国の洋酒が出された。

各会場は、クリーム色のワイシャツ、ブラウス姿のHondaマン、Hondaウーマンの熱気で満ちあふれ、食べ放題、飲み放題の祝宴が繰り広げられた。本田と藤澤は各会場でビールを片手に従業員との談笑を楽しんだ。

「たった1晩で3つの会場を回るのは大変だったけど、ものすごく楽しい思い出として今も心に残っている」

と、参加者たちは口をそろえて言う。

また、大学卒業後間もない新入社員として参加したある従業員は、

「なんてすごい会社なんだろう。こんな大掛かりなことをやってのけるこの会社のパワーは何なんだろう。すごい会社に入ったものだ」

と、その驚きを語った。

当初、関係者の間で懸念された暴力沙汰や問題は皆無に近く、前夜祭は大成功のうちに終了した。

出典:Honda

全従業員で祝った15周年記念式典

翌23日には、約8000人の全従業員が京都市体育館に集い、京都市消防局音楽隊を招いて創立15周年記念式典を祝った。

式典は、体育館中央に丸い壇を設置し、その周りを従業員が囲むという形式で行われた。式典に先立って繰り広げられた、卓球、バレーボールのオールHonda親善試合決勝戦の熱気とは打って変わって、厳粛な雰囲気の中で行われた。


『創15記念アルバム』には、壇上であいさつする本田、藤澤両人の自信と喜びにあふれた写真が掲載され、そこには『このとき、社長、専務への信頼感は極限まで沸とうした』と記されている。

「その時、オヤジさん(本田のこと)がどんなお話しをされたかは、残念ながら覚えていないんですが、大きな感動と興奮で体が震えたままでした」(参加従業員)。

従業員による提案・企画・運営で大いに盛り上がった創立15周年記念行事と式典は、Hondaの新たな飛躍に向け、従業員の心を一つに結び付ける場として、大きな役割を果たしたのである。

出典:Honda

 

 

以下関連した資料です

『模擬国際都市の夜』提案書

最優秀賞の提案書です

二週間でここまで調べ上げ、グループで作り上げた提案書

NO-1 計画のねらいと流し方

NO-2 輸送方法明詳


NO-3 歓迎とパレード

NO-4 お楽しみコース案内


NO-5 模擬国際都市

NO-6 式典次第


創立15周年記念行事プログラム

最優秀賞の提案書を元に作成されたプログラム!

行事前に8000人の社員に配布されました。

ワクワクする内容満載です

京都を貸し切ったと言われた創立記念行事、実際に参加された社員の方からプログラムを観せていただきました。

当時のホンダの社員の平均年齢は24歳、2018年現在ほとんどの方が80歳以上になられています。

どんな楽しい京都だったのか、機会を作って聞いてみたいと思います。

ホンダ創立15周年、京都に8000人という意味ですね!

 

アイデア満載です

 

節のある竹、色んな意味があって表紙にしたんだろうなぁ

 

創15記念アルバム

ホンダ社報の別冊として発行された創15記念アルバム

クリーム色のシャツに黒のネクタイで統一