藤澤武夫のことば
鈴鹿製作所にかける期待
(1959.S34.11社報 藤澤武夫)
多量生産の機会
日本で戦争中、鉄砲玉だとか鉄砲だとかいうのを量産したのだけれど、しかしそのときの量産と近代産業の量産とは違う。しかも近代産業の中でもセメントを量産するのと、オートバイを量産する、あるいは自動車を量産するというのはこれまた少し違う。なぜならセメントは、装置を持てば製品は何年も大体同じだ。ところがオートバイは、同じものを何年も作ったら売れなくなる。だからそのときにあった売れる商品を作り、しかもそれを量産する。そのかぎりで量産しても売れる見通しがある。
このような量産は機械工場のみならず、日本の企業にはいまだかつてなかったことだ。その機会がスーパーカブに訪れたのだ。しかし、この機会は偶然に訪れたものではない。
これはカブができるには、やはりドリームなり、ベンリイなりをみんなでつきつめたということ、それからまた一つの素晴らしいアイデアがここに集まったということ、そういうふうにしてできあがったのだ。
では、なぜ量産が日本にできないかというと、簡単にどこでも日本の企業は真似るからなんだ。いいものができるとほうぼうで真似る、だから一つ会社で量産しようとしてもほうぼうで生産するので、一つの企業は量産できない。
ではうちでなぜこれができるかというと、カブはよそでは一寸(ちょっと)、二年、三年かかっても間に合わないだけ進んでいるからだ。しかしいずれはこのカブも人が作ったのだから、よそが真似ると思う。しかしよそが真似てからでは膨大な設備をしたりあるいは今度のような大仕掛けな拡張をやることは、企業としては非常に危険なんだ。まず、よそより二年なり三年なり進んだものを、よそより先につかんだということ、そしてそのものが非常に今の時期に売れるということ。これを逃してしまうともう量産をするという時期はない。
多量生産は企業安定への道
またなぜ量産がそんなに必要かというと、さわぎたてるのに奇異に感ずるかも知れない。うちで私がかつて言ってきたことは多種少量生産という考え方であり、その考え方でやってきたが、今このままのやり方、考え方で量を作ったら、やはり数だけ多量になっても思想的には少量生産の考え方なんだ。ただ数だけが多量なんだ。それじゃ世界の多量生産の思想とは合わない。ドイツにしてもアメリカ、イタリアにしても多量生産をやる場合には、今までの少量生産方式の思想から出発した多量生産ではなくて、全然別な多量生産方式を取っている。その多量生産方式を取れたということが、企業の安定する最も重要な一つの地位なんだ。
外国では多量生産方式を各企業で知っている。
いっぺん、その方式をマスターしてあれば、たとえある時期少量生産をしていても、その方式を知らない別の会社が設備をしたとしても、追い付くということには間がある。
悪貨は良貨を駆逐する。
「悪貨は良貨を駆逐する」という諺(ことわざ)がある。よその製品をみると必ずしもいい品質ではないんだけれども、現実にうちのカブが需要をみたし得ないと、お客さんが良く知らないということもあってあまり良くなく、うちに比べて価値が高いと思われないものの数がふえてきている。これは国内だけで考えるならいいことかも知れない、企業それぞれの在り方だからね。しかしそういうものが絶対的な地盤を取ってしまうと、うちのカブがあれだけの製品が生まれる基礎を作って生まれていながら、量が少なかっただけの理由で、「悪貨は良貨を駆逐する」という諺どおり、うちは伸びる機会を少なくしてしまうことになる。
いい技術ならば絶対に勝てるかというと、やり方、考え方によっては必ずしも楽観は許せないと思う。だからよその企業が数を作り、そして値段を下げてダンピングする。そしてますます大きくしてしまう。それでも、外国に出して外国の商品と太刀打できるものならいいのだが。だから、よい商品であっても、まったく我われの考え方一つによっては世界中にこれが売れていくというものをさえ、機会を失ってしまう。
よそ一社で今月などは七千、八千という台数を作っている。もし、うちが一万六千を今月作らなかったとしたら、つまりよそが七千台で、うちは今までどおり一万台であったとしたら、うちの比率は加速度的に下がってしまうことになる。
なるほど、みんなの努力でここまできた。しかし努力してきたからこそ、ますます今のチャンスをつかみ、量産をし、確立する基盤を作り、そして世界にでていくんだということが、これはどうしても今をおいて二度とない。それだけに今後の鈴鹿製作所にかける期待は大きい。また、今までもってきた人間の知恵を最高度に発揮する必要がある。