本田宗一郎のことば
贅沢品
(1953.S28.10 月報 本田宗一郎)
新生活運動?
近頃、贅沢品追放とか、新生活運動とか、いわゆる奢り傲ぶることを止めて、実用一点張りの生活をしようという意味の声をたびたび耳に致します。
しかし、果たして贅沢品とは何ぞや、ということになると、これは極めて難しい、誤解し易い問題であると思います。
たとえて申せば、誰もが容易に想像するように、女性の身のまわり品について言えば、南京虫時計しかり、ネックレースしかり、イヤリングしかりといった具合ですが、同様の筆法でいけば、男性としてもネクタイしかり、カフスしかりということになりましょう。
いわゆる今までの封建日本の「二宮尊徳流」に考えて、煎じつめれば音楽会も絵画展も贅沢だということになり兼ねない訳です。それでは、現代人は贅沢品の中に埋もれて生活していることにでもなりましょう。
贅沢品と芸術品
つまり「要注意の赤信号」は、実用と贅沢の境界線に点滅しているのであって、その判断の基準を誤って、あまり物事の形式面のみ捉われると以上のようなことになり兼ねない訳です。
たとえば、品物の制作の面から考えるとフォルム(形態)が大切な要素になるのですが、このフォルムも、格好よく作れば贅沢品で、悪く作れば実用向きであるなどと言えば、誰でも吹きだすほど滑稽なことでしょう。
ところがあに計らんや、この一見滑稽な考え方が、社会的な通念の底に根強く「日本的尊徳流」の執念深さでもって横たわっているのではないでしょうか。
ある人が自動車を買うとしましょう。ところでその人は、何はさて置いて、ボンネットを開けて見るより、まずその美しいフォルムに見とれるでしょう。と言って、我われはその人が贅沢な素質を持っていると言って批判することはできないのです。
それは美しく芸術的であってこそ、初めて長い実用に耐えられることを意味するでしょう。
モンペと国民服
いわゆる、実際的な要求からでてきた実用品が、人間の知性と努力によって段々と美しい芸術品に仕上げられていく過程が忘れられると、美しいものと醜いもの、実用品と贅沢品を混同するような馬鹿げた視野が生まれてくることになりましょう。
私達は戦時中、甲号とか乙号とかの国民服を、女性はモンペを強制されたものですが、同じ布地でもっとスマートに美しくできるものを、国民服やモンペで得々としていた考え方からすれば、万事すべて贅沢品に見える訳です。
このような視野の狭い考え方では、日本の商品を世界に輸出して世界経済の仲間に入ろうなどとは思いも寄らぬことと言えましょう。
世はスピード時代
先日のことですが、ある一流新聞に、バイクモーターは贅沢品だといった意味の記事を見受けました。
自己弁護する訳ではありませんが、それは現代がいかにスピード化されているか、認識不足もはなはだしいものと言えましょう。
もっとも「お軽勘平」時代には、籠が実用的で、自転車出現などと言っても、それこそ、贅沢品そのもののように考えられたでしょう。
しかし、オスロ―東京間三十八時間の現在、自転車はむしろ実用品としては置き去りを喰った観があります。
現代がなぜスピード化されたか
それは言うまでもなく、時間の労費こそ最大の贅沢だからでありましょう。
とにかく、私達は体を消耗しないで、短時間に有効な仕事をしなければならないのです。
自転車にバイクをつけるのもしかりでありまして、決して贅沢品とは言えないでしょう。また、最近、医学の発達は人生五十年を十五、六年も延長したと言われますが、しかし、ただ単に「お前百までわしゃ九十九まで」生きたところで、それだけで幸福とは言えません。
本当の幸福は、生きている時間を、いかに有効に使うかによって、それが幸福の意味になるのですし、またそこにその人の価値が表れてくる訳です。
一つのネクタイやネックレースのいかんよりも、時間の浪費こそ最大の贅沢であることを私達は忘れてはならないでしょう。