藤澤武夫

11月10日

おはようございます😃

藤澤武夫さん

1910年11月10日

東京市小石川区(現在の東京都文京区)生まれ。

日本国内では本田宗一郎さんの影に隠れてあまり広くは知られていませんが世界では稀世の名参謀といわれた藤澤武夫さんの誕生日です。

Hondaを世界的な大企業に育て上げたのです。

藤澤武夫さんのホンダでの業績を語るエピソードを少し紹介します。

先ずは1952年F型カブ販売時「DM戦略」!

 

当時オートバイ店は日本国内でおよそ300店。もちろんHondaの専門店ではありません。新参のHondaは全て委託販売、しかも支払いは先方の都合でした。

藤澤武夫さんのアイデアは自転車店への「DM戦略」です。

販売するのは、自転車に取り付けるエンジンです。

そのアイデアとは?

全国の自転車店にダイレクトメールを送るという戦略を打ちました。その数5万軒

その「DM戦略」の内容はこんな感じ!

『あなた方のご先祖は、日露戦争の後、勇気をもって輸入自転車を売る決心をされた。それが今日のあなたのご商売です。ところが今、お客様はエンジンの付いたものを求めている。そのエンジンをホンダがつくりました。興味がおありなら、ご返事下さい』これが最初のDM。

すると3万軒以上から『関心あり』の返事が来ました。

その後1万5000軒の自転車店で販売、F型カブは日本中に普及したそうです。

取り扱っていたお店の社長さんから聞きましたが、自転車を押したお客様で行列が出来たそうです。

当時は自転車店、現在は四輪店です^o^

続いて藤澤武夫さんは、本田宗一郎さんを促して「マン島T Tレース宣言」を1954年に発表。

写真は藤澤武夫さん自ら文案を練った宣言文です。社内向けは横書き、社外向けは縦書きです。

当時ホンダは初の海外レース参戦を果たしますが13位。欧州の先進的なマシンとホンダのマシンの実力差は雲泥の差でした。また、経営も圧迫。販売しているバイクは売れ行き低迷。新型車はクレーム続出。さらには海外から購入した最新鋭の機械による莫大な借金。

経営が厳しい時に真っ先にレース活動をやめさせる・・のが経営者の常道ですが、マン島T Tレースを制覇する世界一の技術を持つメーカーにならなければ日本一のメーカーにすらなれないという本田宗一郎さんの考えに藤澤武夫さんは賛同し、非常に厳しい状況の中、レース活動を経営者判断として推進していき、本田宗一郎さんを支え続けました。

そして1959年ついにマン島T Tレース出場を果たします。この時は125ccクラス6位が最高成績でしたが、わずか3年目の1961年にホンダはマン島T Tレースで125ccクラス250cc共に悲願の優勝を果たします。マン島出場宣言から7年目‼️

 

1962年に完成した日本初の本格レーシングコースの鈴鹿サーキットも本田宗一郎さんの意を汲んだ藤澤武夫さんがプロジェクトを立ち上げ、推進し建設しました。

 

本田技研工業株式会社 副社長 退任

 

本田宗一郎さんも「おれは藤澤武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」と言われてホンダ創立25周年を迎えた1973年10月に共に退任しました。

藤澤武夫さん61歳

本田宗一郎さん65歳

著書に「松明は自分の手で」おすすめ^o^