いよいよF1オーストラリアグランプリ開幕ですね。
創業者・本田宗一郎さんの掛け声で始まったF1挑戦。
それから50年目となる今年のF1復帰。
ホンダは、2000年にエンジンサプライヤーとして3度目のF1参戦を果たし、2006年から2008年まではフルコンストラクターとして活動してきましたね。
7年ぶりにF1に復帰し、3月13日オーストラリアで開幕戦を迎えますが、本田宗一郎さんと一緒に仕事をした事の無い若いホンダの技術者たちは、どんな「DNA」を受け継ぎ闘っていくのでしょうか?
今年一年は厳しい年になるでしょうがとても楽しみです。
7年前の2008年の参戦時に「HondaのDNA」の継承を知る事になったニュースを思い出しましたので少し紹介していきますね。
7年前の2008年、静岡県の小学校6年生でF1大ファンの「手塚啓太くん(12)」が急性リンパ性白血病のため静岡県立こども病院で病魔と戦っておりました。
「病気が治ったら、F1関係の仕事をしたい」
手塚啓太くんの夢を受け
9月17日、静岡県立こども病院のロビーにF1マシンが登場しました。
啓太くんは2005年の5月から入院し2008年の8月末から病状が悪化し、危篤状態と回復を繰り返していたそうです。
危篤状態から意識が戻った9月15日、難病の子供の夢をかなえるボランティア団体の方がたまたま県立こども病院を訪問。
居合わせた担当医から両親と啓太くんを紹介されたそうです。
普段は目を開けているのも難しい啓太くんは、表情を輝かせてボランティア団体の方にF1の夢を託したそうです。
ボランティア団体がある雑誌社を通してF1カーを病院に運べないか数社に打診するも断られました。
ボランティア団体は16日にホンダに打診したところ、1時間で了承を得る。
丁度その頃、海外参戦していたF1のクルーが帰国のため成田へ。
ホンダは成田からこども病院へF1のクルーを直行させました。
9月17日 F1は病院のロビーに到着し、啓太君はF1カーに対面し大感激したそうです。
企画から二日間で実現したのはボランティア団体では初めての事だそうです。
ホンダは
「今回のような事は初めてです。各部門が啓太君の夢を叶えたい一心で走り回った」
という。
17日に運ばれて来たのは前年までF1グランプリで世界を走ってきた「RA108」
チームカラーの地球をイメージした青と緑の車体です。
出典:毎日新聞静岡版 2008年9月18日
この記事を見たとき涙してしまい、止まりませんでした。
一人の子供の夢の為に一生懸命になるHonda、まさにDNAです。
HondaのDNAが引き継がれているのを感じました。
自動車関係の技術者ならずとも「本田宗一郎」さんのことを尊敬している人は少なくないと思います。
自分もその一人です。
ありがとう!Honda
啓太くんは三日後の20日にお母様の腕の中で亡くなりました。
以下新聞記事より抜粋
急性リンパ性白血病に苦しみ、夢だったF1カーも病院に来て励ました少年が20日、入院先の県立こども病院(静岡市葵区)で亡くなった。
前日に 訪れたレーサーの高木虎之介さん(34)と交わした
「21日に 他の仲間も連れてまた来るから待ってて」という約束は 果たせなかったが、意識が戻った時には両親に「僕、すごく幸せだったよ」と笑顔を浮かべたという。
17日にF1車が病院を訪れた後に体調を崩したが、19日夜に 知人から話を聞いた元F1レーサーの高木さんが訪れると 奇跡的に意識が回復。
高木さんが 昨年着ていたレーシングスーツを手渡して、翌日の試合予定を告げると「頑張ってください」とはっきり口にした。
だが同日深夜に容態が急変し、20日午後1時45分、母の腕に抱かれ、親族が見守る中、息を引き取った。
「両親にお礼を言いたい」と担当看護師に言葉を残していた。
同級生約百二十人が出棺に立会い、大勢の人が二十三日の葬儀に参列した。
母真弓さんは「最後に夢をかなえることができて啓太は幸せだった。次に生きることを始めたとき、F1レーサーなれるといい」と話した。
父 は「あまり学校には行けなかったけど、友達にも恵まれ、最後に最高の思い出もできた。きっと幸せだっただろう」と話した。
啓太くん、天国からF1の応援お願いしますね。
心から啓太くんのご冥福をお祈りいたします。
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