本田宗一郎のことば

経営の大本を考える

(1957.S32.6 社報)

 

 

 争議このかた、私が会社の現状、将来への希望についていろいろと考えてきたことを忌たんなく述べさせていただく。

 私がこんどの問題でいちばん痛切に感じたのは、皆、附和雷同していることである。私は皆がもっとよく会社の発展過程、存続の意義をつかんでほしいと思う。

 

 うちのオートバイで、うちで手を入れているのはわずか二十五パーセントで、七十五パーセントが協力工場に背負っていること、作られた製品を買ってくれるお客さんのことを考えることが基本態度である。自分のやっていることにもっと謙虚であるべきで、自分さえよければというのは、我われホンダの人間としてとるべき経営態度であってはならない。自分は社会構成の一員であり、自分の欲するものは他の人もまた欲することを忘れてはならない。愛されるホンダになるためには、ホンダのオートバイに関係するすべての人のことを常に念頭におかねばならない。信用というものは、好かれること、約束を守ること、人に儲けさせてやることにつきる。アプレ企業の代表として西のサンヨー、東のホンダと言われ、今日残り得たのはホンダがホンダだけの利潤を追求してこなかったからである。

 

 この信用があれば、不景気に直面してもホンダは生きていけるのである。

 

 それにつけても、儲かっている会社にいるから人々に認められるのではなく、そこに働く一人ひとりが立派だから、ホンダという会社は立派だと言われるようになってほしい。

 

 賃金についていろいろと問題が起きるが、賃金というものはどのようにでも人間が勝手に決めることができる。賃金を考えるときは、同業者にあってはどうか、その地区ではどうか、日本全体の企業の中ではどうかを考えて、この最大公約数を満たしているとすれば妥当な線がでてくるはずである。

 

 いつも相手の収益や人格を尊重する人であって、自分だけのことしか考えない人であってはならない。

 

 大局的な立場で判断せず、自分のことしか考えない人々と、私は手を携えて仕事をしていく気持ちはない。ものにはほどほどということがある。私が会社を起こして以来、私の気持ちは充分に知ってくれていると思う。

 

 私はこの会社で職員、工員の区別をしないのは、学校をでた、でないによって人間を区別したくないからである。本来平等であるべき人間に、なぜこのような区別が必要であるか。この私の信念は会社の生いたちと現在をみれば分かってくれるはずである。

 

 今回の事件中、たまたま、ある人に、埼玉だけだしたらどうなる、と聞いたところ、浜松のことは分かりませんとの答であった。ここに問題がある。経営者でないから経営の立場を考えないということは、人間として相手の立場に立って考えないということである。私が病気やケガをした人に保障をしたいのも、自分がそういう立場に立たされたときのことを考えるからである。

 

 経営が助け合いで成り立っていると考えるのも同様の意味である。

 

 人間が「なさけ」「れんびん」の情を持ってこそ道徳が生まれ、人間の成長があることを認識してほしい。

 

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