本田宗一郎のことば
「悪い子」に期待する
(1962.S37.3 社報)
人間誰でも、未知のものには心をひかれる。一種の不安も感じるが、それを恐れず飛び込んだり、やってみたくなる、そんな魅力のあるものだ。
未知の世界の探求というものは、私は人生最大の楽しみの一つだと思う。この楽しみをあきらめたり、忘れたりしたら、もうその人間の進歩はストップする。明日がなくなり、昨日までの思い出ばかりを追い回すようになる。つまり老い込むわけだ。
若い世代のくせに、中年男みたいな、ときには八十爺さんのような、消極的で保守的な人間がいる。周囲にばかり気がねして、コセコセとちぢかんで生きている。
なぜこんな片輪者みたいな、できそこないの青年がいるのだろうか。どうしてこんなタイプの人間に育ってしまうのだろうか。もちろん本人自身に大半の原因はあるだろうが、そればかりではないはずだ。
社会一般に『若さを去勢された青年』を要求する傾向のあること、これが最大の原因である。つまり『オトナシイ、素直な、自由になる青年』を望む、世間のオトナ達の身勝手な『コトナカレ主義』が、その底にドス黒く渦巻いているのだ。
『若さ』においては、どんな青年にもヒケをとらないと自負している私だが、もう頭の禿げている私を、世間では『ホンダ・アプレ』という。ホメ言葉か悪口か知らないが、これをもっていかに社会が保守的で、セクトにこだわり、排他的か分かると思う。
私は深刻に、これではいけないと思う。オトナ達が本気で未知の魅力にとりつかれ、勇敢にそれを追求しなければ、家庭生活は暗くなり、社会に活力が消え、自然と国家も斜陽のコースをたどることになる。なぜかといえば、消極的なオトナに囲まれていては、満足に若い芽も、若いエネルギーも生まれにくいからだ。
子ども達が、見るもの聞くものに疑問をいだき、関心と好奇の目をみはる。何でもつかもうとしたり、口に入れたり、破いたり壊したり、親をハラハラさせる。
「どうしてなの?」
を連発する。子ども達にとって、すべてが未知の対象だ。恐ろしさも確かにあるだろうが、子ども達はそれにひるまない。未知への探求心は、探険家の心理に通じる。子どもというものは、だいたいそんなに相違のあるものではない。同じ程度のテンポで成長するのだから、どの子も一様に勇敢な未知の世界への探険家である。
親達はとかく無理解に、この探険家を冷遇する。そして未知への関心の芽を摘みとったり、歪めたりしている。
この傾向は、子どもが幼児から青年に成長しても、一向に改まらないどころか、むしろ頑固さが加わるほどだ。
若い人達は、まだ自分の思想も固まっていない。いろいろな未知を追求し、体験していくうちに、自分の考えもはっきりして、その個性も形成されていくものである。知識欲に燃えて、手当たり次第に本を読みあさるのもよい。力いっぱい体を鍛えるのもいいだろう。仕事に打ち込むのも、精いっぱいに楽しみを味わうのもよい。
若い人が、思いきりエネルギーをぶっつけている姿は、美しいし健康的でもある。オトナ達がとやかく口出しするまでもなく、若い知恵がその時代的背景を充分に反映したルールを創りだしていく。オトナ達に彼等の知恵が理解できないから、信頼できないで、とやかく指導という名の干渉をしたがる。
しかし若い人達の大部分は、そんなオトナ達の無理解をよそに、のびのびと自由に成長している。だが彼等の心の底には、消しがたいオトナ達への不信、軽蔑、絶望が刻みこまれていないとは、私も断言できない。
「山に登りたい」と言うと、すぐに「危険だ、よした方がいい」とくる。オートバイなどで、ちょっとでもスピードを出し過ぎれば、
「どうして、こう危ないことばかりするのか」と怒鳴りつける。夜遊びが過ぎようものなら、周囲がみな敵になる。
「みんなお前のタメを思うからこそ、注意するのだ。もう少し落ちついて勉強したらどうか」
たいがいこんな叱言にとり囲まれる。こうしたオトナ達の感覚というものは、ちょうど裸でヨチヨチ逃げる子どもを、赤面しながらパンツを持って追う母親の姿で代表される。
幼い子どもには、見栄もなければ外聞もない。ズバリ真っ裸の自由と爽快さを喜ぶものだ。母親には、これが分からない。一事が万事、自分達オトナの感覚でしか判断できない。だから自分がパンツをはいていない場合を想像して、赤くなるのだろう。私なんかは、かえってそんな姿にミダラなものを感じる。
年頃になれば、放っておいても身のまわりを飾るようにもなるし、どんな姿が恥ずべきか悟るようになる。そういうものである。
ありのままの子どもを理解しようと努力もせずに、親の常識の枠内で教育しようとかかるから、いやらしいオトナびた子どもや、老人みたいな青年が生まれるのだ。これほど子どもにとって不幸な、迷惑なことはあるまい。
まさに『子の心、親知らず』である。
こうした親達の手で、画一的な人間のタイプ以外に、どんな個性が育てられるか。考えてみるとゾッとする。「ハイ、ハイ」とオトナの言いなりになる子や、オトナの考え方の枠から飛躍しようとしない子が『いい子』であり、自分の意志を表明し、主張したり、個性的な行動を示す子はたちまち『悪い子』の烙印を押されるのを見れば、充分に納得できるはずだ。
だから、私は、世間でいう『悪い子』に期待している。なぜかといえば、そういう子どもこそ『個性の芽生え』を持つ、頼もしい、可能性に満ちたほんとうの意味の『いい子』なのである。
常々私は、周囲の若い人達にもこう言っている。 「前世紀の考えから一歩も出られないオトナから『いい子』だなんて言われているようじゃ、そのオトナ以上には伸びやしない。他人の顔色ばかりうかがって、自分の中に萎縮して生きるような人間は、どんどん日進月歩する現代には通用しない。第一ついていけない。
オトナに『悪い子』と言われるのを恐れていないで、若者らしく勇気を持っていろんな経験をし、視野をひろげておくことが大切だ。
もしも、ある程度のいき過ぎや誤ちがあったとしても、それが前向きの姿勢であり、正しさを信じての行動であれば、それは『若気のいたり』として許されるものだ。これこそ若さの特権なのだから、そうむざむざ放棄することはない」
ここで私は、誤解を招かぬようつけ加えなければならない。それは何かといえば、ものごとすべてに限度があるということである。 「若い人は、何をしてもよい」と言っても、そこにはある限界があるということである。
オートバイを飛ばし過ぎ、人や物に危害を加えたり、遊びが過ぎて盗みを働くなど、これはもってのほかのことである。善意の他人に迷惑をかけることは、社会人として、自由人として最高の犯罪だと思う。絶対に他人の犠牲を強要してはならないのである。
社会には、その社会を維持するための法があり、秩序がある。それを守らなければならない。自分の生命、財産、自由が尊重されるためには、他人のそれを尊重することが必要である。権利を自覚して、義務を果たすことである。
これを前提に、どんな行動にも責任をとらなければならない。誤ちの理由を、絶対に他に求めては駄目だ。どんな場合でも、自分の行動は自分の意志で決定する人間でありたい。
他人に引きずられて、行動に突っ走るというくらい無責任な、恥ずべきことはない。もう一歩進めて、周囲からどんな圧力があっても、自分の意志に反する提案だったら断固として拒否できる勇気を持つ人間でありたい。
こうした基本的な考えを身につけたところに、行動の自由の限界を悟る良識が生まれるのであると思う。良識のともなわない『若さ』というものは、ときとして野獣の牙にもなりかねない両刃の剣である。他人を傷つけると同時に、自分をも傷つけるのだ。
いたずらに『若さ』の衝動だけで、貴重なエネルギーを爆発させてはいけない。人生というコースは、やたらと長い。決して平坦でスムースなものではない。それこそ日本の道路よりも悪路と考えてもよい。その条件を無視して突っ走れば、いずれはバテてしまう。
現状を正確に判断し、将来の見通しをガッチリと立て、自分のスタミナを適正に配分することが大事だ。そのために学問も必要だろうし、豊かな見識もいるだろう。経験の知恵も大切だ。勇気も決断力も実行力も、そして忍耐力もなくてはなるまい。
これらに目を向けず、むやみと先を急ぐことが『若さ』でもなければ、未来に生きる姿勢でもないと思う。
歴史は、現代を支え、未来を組み立てる。歴史を否定して、現在は理解できないのだ。未来の方向に正しく向くには、歴史を背景に持たなければならない。
たとえて言えば、こういうことである。
終戦直後、いろんな型の自転車が氾らんした。奇抜なアイデアやデザインを売りものにして、私達を驚かせた。ところが十六年たった今、自転車は何とそれ以前の古い型に戻っている。
なぜこういうことになったかといえば、自転車というものはすでに遠い昔に、すべての意味で完成されているのだ。三角の車体フレームは、理論的にも経済的にも最高に合理化された結論なのである。二輪で人力で運転するなら、もうこれ以上のものは考えられない構造であり、スタイルだったのだ。
これは自転車の歴史を見れば、簡単に理解できることである。それを無視したからいけなかった。
人生には、こんな例は数限りなくある。少しばかりの努力と時間を惜しんで、馬鹿げた無駄骨を折るのは愚である。
短気で先走りの私が、歴史を勉強するのが好きなのは、まんざら『立川文庫』愛読の延長ばかりでなく、こんな理由もあるのだ。確かに歴史は多くを教えてくれる。反省の材料も与えてくれる。適切な助言もしてくれる。
人生はほんとうに長い。スタートを間違ったら、先行き誤差の広がりは大変なものになる。スタミナの配分がでたらめだったら、折角のハイ・オクタンの『若さ』というエネルギーも、暴発して破壊力に堕落するし、エン・ストの原因ともなってしまう。
この自覚さえ失わなければ、どんなに自由な行動も、青春の謳歌も許される。分からずやのオトナ達の説教など、クソくらえだ。堂々と『若さ』を発散させ、『若いいのち』を主張し給え。
そういう溌らつとした青年が、これまでの老人のような青年に代わって、高く評価される時代がもうすぐそこまできているのである。