本田宗一郎のことば
寄生虫のはなし
(1955.S30.3 社報 本田宗一郎)
昨年、ヨーロッパ旅行中、イタリアでの話である。
とある街で私は急に下腹のあたりに痛みを感じたので、これはテッキリ回虫の仕業だと思い付近の薬屋に飛びこんだ。その店で「寄生虫の薬をくれ」と言うと薬屋のオヤジは、うちにはないからここへいけと言って、一キロ程先の別の店を教えてくれた。
薬屋に虫下しがないとはおかしな話だと思ったが、痛む腹をかかえて教えられた店までたどりついたところ、そこは乾物屋のような感じで、店先には数名の婦人がたたずんでいる。ここでまた「寄生虫の薬をくれ」と言うと、今度は大きな袋に入れた薬をだしてきた。日本の虫下しは小さな薬包に入っているのに、これはどうも変だと思い「使い方を教えろ」と聞くと、適宜に使えばよろしいと言う。
ますます話がおかしいので「材料を見せてくれ」と言うと、オヤジが奥からオモムロにとりだしてきたのは、何とナフタリンだった。「違う違うこれだ」と下腹を指でさして見せたら、分かった分かったと大笑いして前にいった薬屋を教えた。
前にいった薬屋で、またまた大笑いをされた挙げ句の果てにやっと本物の虫下しを手に入れることができたが、ナフタリンを飲みそこなったご当人にとっては笑いごとどころではなく冷や汗ものだった。
これは私の赤毛布(アカゲツト)物語であるが、こういうことが、なぜ起こったかは、やはり我われとしてよく考えてみる必要がある。
まず第一に、ヨーロッパでは腹の中に虫を持っている者が少ないために、寄生虫と言った場合は、肌につく虫だけを連想する程に衛生面が進歩しているのであろうか。そうだとすれば、口では文化、文化と言いながら、同じその口で回虫の卵のついた野菜を平気で食っている日本の現状と比べてうらやましい次第だが。
次に、ヨーロッパでは腹の中の虫と、肌につく虫とを言葉の上で使いわけており、私が寄生虫と言った場合の虫は肌につくものをさしたのであろうか。
そうだとすれば、日本語のアイマイさ(翻訳にあたっての)は一考の要がある。
ナフタリンを飲みそこなった腹癒(はらいせ)ではないが、私はこう思ったのである。