本田宗一郎のことば
人間の領域
(1957.S32.1 ホンダの友)
ドイツのミュンヘン博物館にいったときである。入口を入ると正面に人だかりがし、何か珍しいものでもあるのかと、人々は詰めかけてくる。私もその一人となって気を踊らせたものである。そこには直径一間半くらいの大理石の大きな円盤が飾られてあり、その中心から円周へ(外郭の所で約五十センチくらい)放射状に赤く塗られた部分があるが、見ている観衆は盛んに「ふうーん」とうなずいて感心しているのだ。何か横に説明書がある。私もそれを読んで見て「成程!」と感心してしまった。その説明はこうである。「……宇宙がその全体の面積だとすると、今まで我われ人間が祖先から考え、創造してきたことはこの赤い部分だけしかない。その一端にこの博物館があり、そういう意味をご承知の上で、博物館を初めから見て下さい……」
とかく我われ人間が物事を考える場合、ただ見たり、聞いたり、ためしたり、所謂この三つで大体考えてしまうのだが、これですべてを断じ得たとすれば、甚だ危険なものである。我われ人間がいかに一生懸命考えても、まだまだその知恵が足らないのだと悲観的にならざるを得なかったが、しかし、それと同時に我われにはまだ考える領域がこれだけたくさん残されているのだと思うと、本当に愉快な気持ちになった。ドイツ人の国民性、現実と未来に向かって人類の方向を凝視せんとするたくましい、そしてたゆまぬ息吹きが全土に満ちている。私は勇躍、博物館の中に入ったのである。