本田宗一郎のことば

人間と技術、自分と他人

(1981.S56.8 社報 本田宗一郎)

 このたびの叙勲、私一人がいただいたものではありません。今日まで、私が働いてきたのも、私一人で歩いてきたわけではない。皆さんが力を合わせて、いろいろやってくださったからで、私はただ一人の代表として、ありがたく勲章をいただいた次第です。我われに力をそえてくださる協力工場各社、販売店様が一体となったところで、初めて私も思うような社会活動ができるのです。厚くお礼を申し上げます。

 現役を退いてから、もう七年ほどになります。その間、私は以前と少し異なる領域の活動をしてきました。それまではメカニズムや工場一本、一筋に体験してきた。もちろんその基本は人間ですが、対する相手は機械が主であった。

 ところが、一転して私の世界は、すべて人間とのお付き合いの世界に変わってきました。いろいろな人とお付き合いする中で、私が考えたことは、人間と技術のかかわり、その理想的な姿は何だろうということです。

 技術というものは、もともと人間の欲求に根ざしています。あらゆる意味で、人間は常に自分を向上させようという欲求を持っている。モノを作りだす仕事もその一つで、人間は、まず自分のために、おれ達はこのとおり向上しているのだ-という幸福感を満たしつつ働いているんです。

 皆さんに、もし少しでもいやいやながら働くという要素があれば、それはやはり問題であり、人間的ではない。それは気持ちよく、進んで働けるように何かを改善していかなければ、その人の大切な時間をロスさせ、ムダにする結果になります。しかも、製品にとってよくないことだし、ひいてはお客様に対してもよくないことです。いつも、自分の働いている場がこれでいいかという、改善のためのアンテナを張って働くことが自分をいかすことであろうと思います。

 この七年間、私が考えたことのあと一つのものは、技術と人間ということの他に、自分と他人、あるいは相手という関係についてです。

 自分も満足し、相手をも幸福にするということがいかに大切であるかということです。いつも、相手の立場に立ってものを考える。自分はこうしたいのだが、これは相手にとってどういう影響を与えることになるか、ということを、しっかり判断することが大切だとしみじみ思うようになった。

 もちろん、以前から相手の気持ちになれることが人間の哲学そのものだ、と私は思っていた。確かに、一つのものを作りだしていく過程は楽しい。自分が考えたもの、それを完成させる喜び、その成功というものはどんなにうれしいものか、技術屋と言いますかモノを作る人間にとって最高に価値ある瞬間と言えるんです。

 しかし、その喜びにひたる前に、技術にかかわる人は、その技術がほんとうに相手のためになるものであるかどうかを考えたいものだと思います。技術の進歩が、どこかにトラブルを生みだすということを避けなければならない。つまり、自分と相手との関係をここでもしっかりと見つめなければならないということです。

 こうは申しても、現実はなかなか厳しく、百パーセント満足すべき状態は難しい。しかし、うちの会社のとってきた態度、判断を見ておりますと、どんな場合でも相手というものを見て、相手の立場を尊重した柔軟な姿勢で取り組んでいるように見受けます。現社長から聞いたことはありませんが、私にはそう見えます。

 このことは、大変うれしいことであり、皆さんもよかったなあと感じていらっしゃると思う。いたずらによそと同調することなく、世界の人々からうらまれるようなことをしないで、きちっとやっている。これは、皆さんが安心して仕事ができる基本と言えるでしょう。相手に対する思いやりが、生きているからだと思います。

 
 オートバイを作っている皆さんにとって、高校生向けの二輪の、1.免許をとらない、2.乗らない、3.買わないという"三ない運動"などは気になる現象ではないでしょうか。はっきり言って私は、商売上のことは抜きにして"三ない運動"には反対です。

 このような運動は、第一に人間性を無視しています。人間性を尊重することを根本理念としなければならぬ学校で、このようなことを押しつけてはいけない。教育の自殺行為と言うべきものと私は考えています。

 生徒達に、きちんとした安全教育のできる先生を早く育てることも大切です。自分でもオートバイを運転し、その正しい乗り方を精神面、技量の面で生徒に指導できる先生がいる高校では"三ない運動"を必要とすることなく、うまく教育が実践されている。

 自分にできないもの、自分が理解できないものだからと言って、権力のある古い世代が若い世代の欲求を奪い、抑えつけることがいいことかどうか、その結果は悪くなるばかりでしょう。

 今はもう、赤ちゃんの頃から水泳を教える時代です。きちんと教えてやれば、小さい子が立派にクロールで泳ぐんです。ただ抑えつけるだけだから、どうしてもオートバイに乗りたい若者は、罪の意識を持って隠れて乗る。そこには教育はないんです。免許証を取りあげるような"三ない運動"が国民の基本的な権利に抵触する、憲法に違背したものがあることを若者は知っている。それを先生が犯すということは、生徒の反発心を買うだけだということに気がつかないのかと思います。
 時代が進んでいる、ということに早く文部省も先生方も気がついて、早急に新しく進んだ教育体系を作っていかないと、えらいことになると私は思います。欧米先進国に追いつくための明治時代からの知識の詰め込み、これだけに汲々としているから、あらゆる教育のゆがみが表われている。もう時代が違うんです。そういう意味で、教育関係者はあまりにもモノモチがよ過ぎると思います。戦後生まれの世代が、もう三十五歳の大人になるというのに、日本の教育の中味は、なぜこんなに古いのかと私は半ばあきれざるを得ないのです。

 皆さんの中にも多くのお父さん方がいると思います。このギャップは親子の間にも言えることです。ここでも相手の立場に立つということが大切になってきます。生まれたときからカラーテレビを見て育っている世代、その感覚と自分の感覚を冷静に考えてください。そして、人生体験の豊富な先輩として、教えなければならないことをキチンと教えることです。

 車の窓からタバコの吸いガラを捨てる父親が公衆道徳を説いても、子供はシラけてしまうでしょう。子供の目の前で、駅のホームにタバコを捨てるような紳士がたくさんいます。大人は、もっとしっかりしなければ、子供に対して何も言うことができません。

 
 人間の偉さというのは、自分が知らないことや欲しいと思う知恵が、欲しいと思ったときいつでも入ってくるようにすることではないかと思う。彼なら喜んで教えてやろう、という人が何人あるかがその人の偉さです。自分の中に過去の知識を蓄積しても、たかが知れているんです。

 そういう意味からも、我われは人間同士の愛情を大事にしなければならないでしょう。仕事をするにしても、人と相談し、大いに人と交わって知恵をだし合う。おれは学校で習ってきたのでこれだけのことができた、なんてホラの吹ける人がいたらお目にかかるよ。私たちは人と力を合わせてのみ、知らず知らずに向上していることを忘れてはなりません。

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