藤澤武夫のことば
新しき年を迎えて
(1955.S30.1 社報 藤澤武夫)
去年はつらい苦しい申し訳ない一年であった。けれども皆さんがこれから永く本田技研に勤められる場合、永い年月の間にはまたこのような時期に出逢うときもあるであろうから、将来に大きく伸びる一コマとして皆で味わったこの体験こそ尊い。
まったく皆にも心配させたし、また苦労もさせた。工場に品物を納入してくださる会社の従業員にまでご迷惑をかけたことと思う。
社会的に見れば、三、四年前の本田技研のおよぼす影響と昨年のそれとは全然違って、万一会社が潰れた場合その流す害毒は実に大きい。その結末は会社の従業員ばかりでない。納入業者の従業員に失業と生活苦をもたらすから-。
事業などしない方がはるかにましだ。こんなことを考え、潰れないですます解決方法を毎日悩んだ私は、四月頃に半月ばかりで一貫目ほどやせた。
毎晩寝汗もかいたし、夜中にビックリしてとび起きたこともあった。けれども皆で満身傷だらけになっても生きていれば、必ずまた回復する時期もあるはずだ。死んでからの薬はどんな高価なものでもきかない。全部無傷で犠牲もなくということはできないだろうと決心し、計画を立てた。
社会のジャーナリストと金融関係筋が本田技研はあぶない、危険だという悪評で溢れているときに、しかもこの手術をしなければならないのだから、その方にも万全の注意を必要とする状態にあった。
この手術に絶大な後援をしてくれた三菱銀行は、本田技研が存続する限り永久に忘れてはならない。
特に一身をなげうって自分の信ずるところを重役に積極的に説明し、周囲の困難な状況があったにもかかわらず、終始一貫所信を通し努力してくださった鈴木時太支店長の名を皆さんは忘れないでほしい。
全員一丸となってやったこの手術は見事にすますことができ、六月頃から回復状態に入った。しかし秋頃からのデフレは中々その回復を充分にさせてくれない。従ってその回復速度は予定より遅かった。
そこに年末この業界に旋風が起こった。アッチがつぶれ、コッチがつぶれ、その余波がどんな方向に行くかわからぬままに本年に入った。従って本年は新春早々から五月頃にかけて波瀾万丈だろう。油断はならない。
けれど他の会社より、経営、金融等充分に手を打ってあるから、気をゆるめなければもちろん絶対に死ぬことはない。傷だらけでも生きていこう。
おそらく本年もデフレが続くだろうが、下期に入ったらもう絶対に本田技研はこの業界で独走するだろう。そして長い長い繁栄の時期に向かうだろう。
経営者として企業合理化をしていなかったり、労務管理が不充分であったり、随分恥ずかしい。けれども二十年、三十年と続いていた大会社が潰れるときに、もし生き残ることができ、そして社会に害毒を流さずにすむことができれば、そのことで従業員の皆さんに私達の拙(つた)なかった経営を許してもらえるだろうと思っている。
去年より今年の方が私には希望がある。なぜなら去年は六月頃まで下り坂であったが、それから以後からの上り坂は今続いているのだから-。
私は今こんなことを公表できるようなところまできたことを喜ぶと同時に、少し私のことを書きすぎたようだ。けれども若い皆さんの未来にいろいろな困難な出来事が起きたときの参考になるとすれば、これは無駄なことではないだろうと考えて-。
話はかわるが、社長が少年のとき自動車をイジリたくて修理工場へ入ったのに赤ん坊のお守りをさせられた。新しい小僧がくるまでの半年の間、いやでいやでたまらなかった。「今日からお前は自動車にサワッテよろしい」と言われてやった仕事が、雪の降った日、車の下をもぐって土をおとす仕事であった。少年といっても十八歳、雪の上を這って車の下の泥を落としながら嬉しくて涙がとめどなく流れたそうだ。
半年の間自分の希望するものでないこと-誰でもきらいだが-をやらせられていたから、余計にその嬉しさが湧き起こってきたのだろう。
しかし仮に半年子守をさせられないで、入社するとすぐこのような条件で「車の下の泥落し」をさせられたとしたら、やはりこの仕事はあまり楽しいものではないから、いやであったろうと思う。とても感激の涙などでることはあるまい。
映画でも、小説でも、芝居でも、思わざる不幸が次から次へと起こって、しかも最後にハッピーエンドの場合に、ホッとした喜びが観客の胸を打つのだと思う。
最初から坦々(たんたん)としたものでは、同じハッピーエンドであっても、何かあたりまえみたいな気がして「なんだつまらねエ」てなことになる。
皆さんも、去年の苦しみ、悩みが大きかっただけ、またそのことを味わう機会があっただけに、そこを通り抜けた後のさわやかなその楽しみが味わえるだろうと思う。今年こそ私も皆さんと一緒にこの楽しみを味わいたい。