藤澤武夫のことば

学んだこと、思うこと

(1973.S48.9 監督者弘報特別号 藤澤武夫)

 

人はいつか退くべきもの

 

多くの会社の定年制が延びた。昔に比べて健康に働け、また、平均寿命も大幅に延びたからでしょう。

 

三日間位、寝不足続きに考えても間違いのない結論がだせるようでなければ、経営者とは言えない。平常のときには問題ないが、経営者の決断場の異常事態発生のとき、年齢からくる粘りのない体での"判断の間違い"が企業を破滅させた例を多く知っている。

 

この会社を好きで入社された大勢の人に、後継グループは誰になるのか、知っていてもらい、その間充分に観察してもらうのは、私達の務め、と思って、折にふれ、機を見て、言葉や、文章でこそ、表現しなかったが、この五、六年前から、してきた。

 

五十で死んだ信長には男性的展開の未来は画けるが、年を重ねた秀吉にはそれがない。創立二十五周年に退こう、と考えていた。

 

昭和二十九年の教訓

 

企業を起こすことのできる人は、異常に近い努力をする。その男性的魅力に、多くの従業員は、"それいけ、やれいけ"と、知恵、知能、努力でついていく。"無から有を生じないはず"を生みだし、新しい企業が誕生する。

 

優秀な資産内容などになって、堂々と、大企業と肩をならべるなど、あり得ざることをしごく当たりまえの顔をして登場する。先輩格の犯したであろう誤りを分析し、現代もまだ、生産企業に、流通企業に、延びてきているが、それはさておき、

 

昭和二十九年は大変な時期でした。いかに物価が今より安いとはいえ、年の暮れに、家族持ちでもたったの五千円が越年手当とは。

 

が、私流の勝手な想像で恐れいるが、そのときを通り過ごされたかたにとっては、つらかったが、大きな思い出となっておられることと思う。あのときを境に、中企業から大企業へと移行し始めたのを体験、いや、猛烈にそれへとさせた仲間だったのですから。

 

危機がひととおり解決したとき、私は自分に何か限界を感じたので、本社と離れた銀座の越後屋の二階の二十坪くらいな事務所を借りた。室の設計も思い切って斬新にと、はからずも今年のアイコンの審査員をしていただく東大の池辺陽先生にお願いした。四囲が真ッ黒な壁でした。当時、非常に評判が悪くて、実は困ったのでしたが、大企業への足掛かりを生みだそうと、考えて、一人で暮らした。最も急を要する課題として、資材、部品在庫を適切な生産数に対する数値を見いだしてもらうことを頼んだ。皆の努力は物凄かった。到底考えられないような十分の一近いものとなった。これは、トヨタ、日産にくらべても負けなくなったと、図表を作って、各製作所で私は礼をいいながら回った。

 

あらゆる部門が、急速に変った。

 

そのとき、"需要ゼロ"と市場調査にでたアメリカに、「二輪車の将来命運ここにあるよ」と、指摘して、国内販売網を作りあげた川島専務にでかけてもらった。実のところ、嬉しそうな顔ではなかったのは確かだ。このもの好きはでかけた。ヤマハやスズキは、この人に、感謝状をだすべきだと、私は思っている。

 

私の毎日の日課は、この室で、膨大な、チャーチル第二次大戦回顧録と向き合った。大事なところは何回も繰り返し読んだ。せっぱ詰まったとき、どうして、ゆとりのある考えになれるのだろうか。日本の権力者とくらべながら記憶だけで、二、三の例を書いてみる。

 

近頃空襲のサイレンの発令が早過ぎる。

 

街の消灯が早くなる。防空壕で過ごす時間も長くなる。両方とも、国民の精神と体力を疲労さす。発令は遅くせよ、と。

 

飛行機も、大砲も、あらゆる兵器が、圧倒的にドイツと差のある英国は、自国の船と借用のアメリカ船全部で、これの輸送をしてもなお足りない軍部に、「のどから手の出るほど欲しい兵器には違いないが、近頃、肉の配給が少なすぎる。船の一部を削って、食肉を輸送してほしい。この戦争は永いのだ。国民の体力を消耗させぬことが第一」と。

 

戦況が、そう変化もない毎日、ラジオの放送の回数が多い。同じ内容では、国民の精神を疲れさす。外のものにしてはどうか。

 

図太い神経のこの国民は、さらにゆったりと空襲に耐えたに違いない。

 

今度こそと、全力をかけたアフリカ戦線がドイツのロンメル将軍に破れた。英国議会は、チャーチル首相では駄目だと、首相不信任案を議会に提出することに決まった。この話を聞いたのはアメリカ大統領に、武器の供給だけでなく、戦争への参加を懇願していたときだった。急いで戻った首相の演説は忘れることのできないものだ。「このような最悪の事態のとき、一国の首相の不信任案が提出できる英国民と、英国議会は、自由社会なればこそだ。ドイツや、ソ連では考えられないことだ」と。票決の結果は、不信任案は、圧倒的数字で否決された。

 

その頃の日本の議会は軍部に押えられ、勇気ある発言をした代議士は憲兵隊に押さえられた。

 

人材の登場こそ企業の繁栄

 

中企業のよさは、小回りがきくことにある。人材が見つけやすい。が逆に、人材の入社が少ない。大企業の欠点は、その巨大な組織が人材の登場を困難にしているように思われた。そこで、目的を明瞭に、全従業員に告げて、現場の第一線の人から、第二、第三の本田宗一郎がその能力を発揮できるよう、登場できるような組織を作ってもらうことを提案した。これを、私の責務としようと決心した。

 

種々に角度を変え、次から次へと提案し続けた。大切なことは、興味を持ってもらえるものでなくてはいけない。ときには提案者たる私も、各製作所に入って、討議の仲間入りをした。"企業の牽引者となるべきエキスパート要員を無理なく、ピラミッド型の組織の中に入っていてもらうことが、企業の繁栄に最も必要だ"との結論が毎回議論としてはでるのだが、給与問題に関すること、当然労働組合との関連がでることなので、実施までには、いろんな段階を踏みつつ進んだため、十五年くらいの年月を要した。皆が考えて編みだした、この専門職制度は、今見事に成熟し、本田技研の逞(たくま)しさはここから生まれると期待している。

 

研究所の独立の経緯について

 

いつまでも、本田宗一郎一人を頼っての企業ではいけない。一人どころか、何人もの本田宗一郎をだしていかない限り、安心して生産企業はやれない。それには、 部門別でのエキスパート、総合するエキスパートなどなどが、企業の守り神。一生をかけて、"一つの道をやり遂げてもらう"には、研究所を独立させ、誇りある地位でなければならぬ。と、結論づきの強行提案を幹部--百五十人だったか--に検討を申し入れた。「必要なし」との答えだった。その時分、ストライキ後の第二組合的になっていた研究所だけに、その後始末的解決策と受け取られ、組合問題を悪化させることの懸念も討議者にはあったかとも思う。だから私は、絶対そんなことで、これを提案しているのではないと、繰り返し説明した。 「労働問題になるはずはない。皆の将来の生活にかかわる大切なこと、よく考えてくれれば賛成のはず」と強調した。「今のままの組織でも提案者の意向はいかされる。一般常識からいっても、特別な理由は見つけられない」と頑強な抵抗だ。中には、私が組織の中で生活したことがないからだ、と本気に言った人もいた。

 

二十人くらいずつに分かれ、討議し、また、月をおいて別のところで、人を組みかえ討議して、半年にも及んだ。が、依然として「必要なし」との答えではあったが、私の情熱と、私がこの会社でやった過去を買ってか、それほどまで言うのなら、という気持ちが大多数の心にあってくれたようだ。私はこの提案が通らない限り"大企業への足掛かりはない"と確信していたので、受け入れられなければ辞任する決意であった。この企業の分岐点が、このときにあったと、今でも思っている。

 

その間討議者全員が、神経質的な、私への抵抗、というのではなく、真剣に、正々堂々の議論をしてくださったから、また、職場に戻って、課の人達に話をしながらのことだったゆえか、研究所独立後の運営は、私が最も念願としていたものを根幹に、進展しての現在。

 

労働組合も、これを取り上げて問題としないでくれたことも、あわせて、ここで礼を言いたい。

 

社会環境も大きく変化するであろう、このときに、個人ではできない大きな問題を、グループとして、何十人もの本田宗一郎が、ここに同時に、誇り高く存在し、それと真正面に取り組んでいる。

 

私はどうも戦記物に縁がある。ドゴール大統領の第二次大戦回顧だ。チャーチル首相のそれ以上とさえ感じられた。これは、私の離れ座敷--お茶室と言っているが、そこで読んだ。この二人の今世紀の偉人が、難局にどう向かったか。私は教えられ、いくらか、経営者らしくなれた。

 

私はあることで苦悩が続いたとき、今監査役をお願いしている川原福三親父さんが「君、お茶室を作れよ。電話もおかず、外部と一切完全に遮断した生活をしなさい。自分の尊敬していたかたが、昔、そうなされていたことが、三菱にとって大変効果があったのだよ」と言われたので、「お茶はできませんし、またやる気もないのですよ」と返事をしたら、「仕事を離れ、会社にも顔を出さない人が、一人くらいいるほうがいいよ。とくに君のところの会社のような場合には」。最初は、会社に出ないでいるのが奇妙な具合であったが、怠け者の私には次第に居心地のよいところとなった。

 

SF構想

 

こんな時分に考えだした。トヨタや日産と大きく引き離されている四輪車企業。需要者の側からは、修理も、調整も、それらの会社と同じであるべきはずだ。メーカーはなおのこと、安心して生産できるような修理態勢がないかぎり、生産はできない。このSF工場の真の面目は、本格的排気規制の自動車が発売された後に発揮されるだろう。現在どのメーカーも規制の商品の生産見通しがない時点で、その代理店の修理マンが、お客様に「ハイできます」と言えるものか。言える会社が、一番遅れて出発したメーカーのホンダなのだから愉快だ。しかも、代理店、販売店は、このことには一切無関心で、日常業務をしていてもらって差し支えないのだ!

 

CVCCにふさわしい販売態勢が、SFとして取られていた。これは社会への大きな貢献だ。よくここまで言えるようにしてくれたものだ。

 

役員室構想

 

このお茶室の所産かも知れない。企業もだんだんに進展してきたので、重役全部が常時一か所に集まって、全社的状況を把握して、共通の話題をして決定してもらうのが、この構想。最初は抵抗されたかたもいたが、一年目のある日、役員室に入ろうとしたら、西田専務から「今日は、ここへは入らないでくれ」と言われた。その日の会議の結果、役員室は存続する、とのことだった。ある程度、最初は私が役員室運営のあり方などに参加していたが、一年ごとに、急速に減らし、四、五年前からは、完全に、この会社の経営は、私達二人から、役員室中心へと移っていった。いってみれば、創成期の時代から、展開期の時代へと移行していたのだった。

 

役員室設立以来、思えば、重大な問題が次から次へと起きた。それを処理することが、即ち、経営能力の力を蓄えたことになった。

 

いわゆる欠陥車問題で、国会での西田専務の答弁。あの時点で大変な勇気のいる役を買ってでて、あそこまで強い所信を述べた。有能な人にも辞めてもらい、若い人を抜擢する慣習を作るために、会社に功績のある人に不愉快な思いをさせたのも、企業の将来のためにしたことだが、自分が残るのはその人たちに申し訳ないことだ。自分は退きたい。とあるとき社長に話して、社長を飛びあがらせたのもこの男。勇気をもって、当たっていく次の経営者の成長。安心して退陣の機会を与えてくれた。

 

ちょっと嫌なこと

 

今、二輪車が、他メーカーに食われて、六十パーセント近かった占拠率が少しだが下がったようだ。キリンビールの独走にくらべて反対なのはなぜなのだろうか。

 

新製品が少ないからだ。との答えは、否定はしない。が、シビック発売前、発売後の真剣さにくらべて、二輪ではそれをやっているか。大企業、俺達は無条件に他のメーカーより偉いんだと、ただ、根拠もないのに思いこんではいないだろうか。かつて、大企業の中に割り込んだあの情熱が。王座に、今、"あぐら"をかいていることはないんだろうか。否、真剣に、二輪に乗っている人が、上から下までといっては恐縮だが、昔ほどいるのかなと、疑問を持ってはいけないだろうか。

 

社長は工場へ着くと、「車を出せ」と言って、乗っていた。ユーザーへの少しずつの配慮の積み重ねが、占拠率への積み重ねであったはず。

 

新製品を早く出すようにと、研究所だけへの重荷を責める以外にも、自分たちも何かあるだろう。

"天から降ってくるお金はねぇ"

 

要は人間の問題だ。資本でも、組織でもない。それ以上に大切に心掛けねばならないもの。

 

自分の職業を大切にする。

 

私の憎まれ口はこれで最後となったのだから、勘違いしているね、とばかり思わないでほしい。

 

現在の状況

 

CVCCという特殊な要素を除いても、次の四輪車はすばらしいものが出現するようだ。どうやら数々の体制を整えつつ、トヨタ、日産へと、挑戦の時機は迫りつつある。損失の多かった四輪も、小型を作って利益を生むところとなるのも近い。「損失が大きかったが、全部従業員の血と、肉となっている本田技研だ」と、本田社長は言い切っている。

 

が、物価が上がって資材へのしわ寄せは激しいようだ。ドルが安くなっての今日、役員室も大変なことだ。それに、かつては、従業員一人当たりの利益率が高いのをもって、ソニーと並び賞賛されたが、四輪車を始めてから、ぐんぐんと落ち、今は自慢するどころか、悪い方の仲間に入っている。これも解決する役目を次の経営者グループは背負っての登場だ。

 

若い人達だ。今、張り切っている。

 

諸君たちも、明るい未来を胸に抱かれて協力して、充分やってほしい。

 

社長との仕事の振り分け

 

社長は技術、私はお金に関係する仕事、これがスタートで始まった。二人とも勝手放題、思ったとおり決裁もすれば行動もする。一致することは"会社を大きくすること"。双方のすることに疑念、指示、苦情は一切ない。顔を見合わせれば、未来への夢のような話ばかりである。これほど楽しいことはない。資本金が二百万円なのに、月産二千万円する。

 

が、二人とも書類に印鑑を押した決裁はしたことがない。"口"で社長がよい、と言えば、会社は行動してもよいことになるのだし、私がしても、同じことになる。これは、周囲に大変すばらしい人材が、雲のごとくに集まっていたからできたのだ。四専務は、若手のパリパリだったし、今の役員室連中。それに、今この会社にはおられないで、独立されたり、会社の責任者として迎えられたりした大勢のかたがた。私達二人はどんどん即決する。それをみごとに事務的に、処理してくれた。二十九年の危機を迎えたとき、「生産調整をされるのなら問題はないですネ」と、元のホンダランド社長、そのときの三菱銀行京橋支店長鈴木時太氏が言われた。「そんなことはすぐしますよ」と答えたら、「本田社長や工場の人がやってくれますかネ。他の会社はなかなか、生産調整をすることができないです」と、言われたとき、"へえ、世間の会社ってそんなものなのかな"って不思議に思ったのでした。私は会社へ帰って、生産調整するよう、白井専務ら製作所の幹部に指示しました。三日目には実行。 「始めましたよ」と言ったときの、鈴木氏の感嘆の顔は、こっちが、びっくりするくらい。当たり前のことをと思っていたのですから。前に書いたように、資材、部品が十分の一になったということは、それまでがいかに急をのみ追いかけ、多少ずさんなところもあったということにもなる。が、管理ばかり優先したら、思い切った次々の技術の改良、独創はでなかったでしょうし、あのときまでの急速な発展とその基盤がなければ、今日の本田技研はなかったと思う。

 

じゃ、誰も企業の初期、そんなふうに、スタートしたらよいか、これは疑問にもならない課題。そこに本田宗一郎が存在したから。火の玉のような社員の固まりが、資材、部品だけでなく。ほかの分野での進歩改善をなしたのは、昭和二十九年まで歩んだ、知恵が経験の基礎となっていたからこそ、できたので、他の会社から人を招いたのでは、こんなに急速に、みごとにはならなかったはず。

 

社長が「月謝だもんネ」と言いますが、全社員、心の底から、理解してのうえ。二十九年以降も、相変わらず、二人とも前のとおりにはしていましたが、大きく成長した周囲の人たちによって、コナされてきたので、事実上は、大幅な変化相違があったことはもちろんです。これが創成第二期とすれば、役員室開設時点が第三期、四年目位から決裁事後報告の多くなった時点が創成期の終了期。つまり、私達の引退準備期と言えましょう。

 

私は社長に、私の構想を前もって話をするとか、了解を得るとかしたことはありません。畑違いの人であると同時に、あの人の頭は技術のことでいつもフル回転です。研究、生産技術、工作機械と、驚くほどの知能を、皆に教え込む。「二日寝ない。寝られない。どうも、夜中にエンジンが頭の中で回って、止まらない」などの話は、次の製品への準備なのです。ですから、私の部門まで指示をされるようでは、これだけの急激な技術の上昇はなかったでしょう。また、私も自由な発想がやれないようでしたら、会社にはいなかったでしょう。もちろん、こんな大企業の副社長など思いもよりませんが。

 

いずれにせよ、この人と逢え、思う一杯にやれ、恵まれた人生を過ごさせしもらいました。

 

辞任への経緯

 

今年のお正月頃でしょうか、"かねての通り今年の創立記念日には辞めたい。社長は今社会的に活動されているので、どうされるかは、私からでない方が、判断されるお時間を持たれるでしょうから。--専務から私の意向を伝えてもらいたい"と申し入れました。

 

が、この人との永い二十四年間の交際で、たった一回の、初めての、そして終りの、大きな誤りをしてしまった。私のことを聞くとすぐ「二人一緒だよ、俺もだよ」とだけ言われたと聞いたとき、まったく恥ずかしい思いをした。

 

その後あるとき、顔を合わせた。こっちへこいよと、目で知らせられたので、一緒に連れ立った。「まァまァだナ」と言われた。

「そう、まァまぁさ」と答えた。

「幸せだったナ」と言われた。

「本当に幸福でしたよ、心からお礼を言います」と言った私に、

「俺も礼を言うよ、良い人生だったナ」

とのことで、引退の話は終わりました。

 いつも、こんな話しかしない二人の間だけど、顔を見るだけでもけっこう楽しい。

 

奥さんと、家内がまた姉妹のような仲であったのも、仕事をするうえに、大きな助けともなっていたようだ。

 

社外からの応援

 

どんな嵐が吹こうと、地割れするかと思われたときも、いつも変らないで、暖かい愛情をこの会社にむけてくださった俗にホンダファンと言われた方がいかに多いか。ありがたいことだ。また、ユーザーほどありがたいものもない。この方たちがCVCC完成のときに喜んでくれた話は、どれほど私たちの胸を打ったことか。

 

例を言えばきりのない無数の方々の応援があったればこそ、本田技研が一本立ちになれた。

 

後継者の方も、従業員も、"自分達だけではない"との今までの考え方をいついつまでも続けてほしい。

 

終わりに

 

どんな難局の時も、助け、解決してくれて、無事に退陣できるようにしてくれた、新社長になられる河島専務、ならびに専務陣、役員室の皆さんがたに、次の経営を継いでもらえることは幸せなことだったと思っている。

 

この間、新聞記者から「在職仲いちばん嬉しかったことは」と聞かれた。とっさのこと、それに嬉しい思い出はいっぱいある。返事をどれにしようかと思ったが、やはりいちばん印象も強いし、嬉しかったことは、労働組合創立十五周年記念行事に、社長と二人招かれたことだなと思った。よく信じ、よくやっていただいた従業員の皆さんに、心からお礼を申しあげたい。

 

ありがとう。重ねて、ありがとう。 これをもって、私の人生のいちばん大事な時、いっしょに釜の飯をともにしてくださったかたがたへ、心からのご挨拶といたします。