藤澤武夫のことば

六有斎

(1952.S27.1 月報 藤澤武夫)


(1)

林子平は

親も無く、妻なく子無く版木無し、金も無ければ死にたくも無し。

と歌って、自ら六無斎と称した。本田技研工業も二~三年前までは、販路無く、土地無く家無く、機械無し、金も無ければ、人もすくなし。

で六無斎の仲間であった。しかるに、現在は販売組織も確立し、工場の土地建物も拡張し、機械は整備充実し、金融面も面目を一新して、会社を構成する人の面においても決して他の会社にひけをとらぬ域に到達した。自らかえりみていささか誇るにたるものがある。しかもわが社のこの成長は、他から援助せられたものでなく、自らの力と自らの努力によって、勝ち得たものである。


明治維新以来大正、昭和にかけて無数の会社が設立され発展した。だが第二次大戦に至る期間のわが国の工業は、国家の保護政策の下に成長し発展したものであった。また第二次大戦後数多く、第二会社が誕生したが、これも親会社より人材や資産を受け継いで、その基礎の上に成長した遺産の相続者である。ところが、わが社のみは戦後まったく新たに、自己の力によって誕生し成長した会社である。これがわが社の特質であり誇りである。


(2)

この多くの会社における経営者は所謂(いわゆる)経営者であって、経理に明るく、金融に長じてはいるが生産技術そのものに暗い欠点があった。これに反してわが社にあっては、本田社長は天才的技術者であるとともに経営の大局にも明るい人である。戦後の混乱時代、物資不足のために品物の形さえ整えておれば売れた時代はともかく、製品の真価が購買を決する現在では、技術的実力の如何(いかん)が会社の興廃を決定する。わが社がかく目覚ましい発展をなしえたのは、実力がものをいった証拠でなくて何であろう。


わが社は今日まで社長、工場長の技術を中核として興隆発展してきた。今後は前項に述べたように、新進の技術陣がその理想を継承して、一丸となってますます発展することであろう。


わが社は戦後に発展した生産会社の一つの典型であって、工業界の前途を卜(ぼく)する新しい指標であると自負している。


(3)

昨一か年に納付した直接の税金総計の詳細は、いずれご報告申しあげるけれども、相当の金額である。二十七年度はおそらく五千万円はくだるまいと思う。従業員家族と協力工場のうちで、わが社に関連するそれらの従業員の家族数の合計は推定六千人以上と思われることは、わが社の存続が国家に少なからざる奉仕をしていると考えて、慎重に会社経営をせねばならぬと感じている。


しかし微々たる資本をもって運営しているわが社が目下直接銀行借入二千万円、振出手形金三千万円もおそらく銀行にて割り引きされておられることと考えるとき、いかに信用という点が大事であり、また絶対この信用をおとすことがあってはならぬと痛感もし、感謝もしている次第である。


顧みるに、これまでに到達した道は決して平坦ではなかった。この嶮(しゅん)道をよじ登るために満身これ創痍(そうい)というほどの疵(きず)を受けたが、この疵を恐れていたのでは現在の標高にまで達することはできなかった。


なんら国家的庇護のない本田技研工業がよじ登った路は文字通り荊(いばら)の道であった。


(4)

わが社においては、本年度は三十万ドルの輸出を計画している。あるいは画餅(がぺい)と言う人があるかも知れないが、わが社の設立後三年半にしてここまで発展した実力をもってすれば、必ずしも不可能でないことを知るであろう。


昨年度は四サイクルE型エンジンを完成し、ついでF型リヤーサイドエンジンをも試作完成した。わが社の高能率、大量生産方式による低コストは、世界工業界の水準において必ずや諸外国と競争して貿易の勝利をもたらすであろう。


これが本年度のわが社の最大の希望であり使命である。


この比類ないわが社の発展は本田社長を中心とする従業員諸君の努力と、協力工場各位のご協力ならびに販売店諸賢のご尽力の賜物であり結晶である。わが社はこの輸出計画を達成し世界的経済に直結するまで、従来のごとく他社の追随を許さぬ努力とスピードをもって発展を継続するであろう。